見栄で買ったものは、結局使わなくなる|40代ミニマリストが購入カメラ・Leicaを手放して気づいたこと

高いものを買ったのに、あまり使わない。
そんな経験はないだろうか。
買うときは、ものすごく欲しかった。
スペックを調べて、レビューを読んで、比較して。
ようやく手に入れた。
なのに、しばらくすると使わなくなる。
僕にも、そういうものがいくつかあった。
今振り返ると、理由はシンプルだ。
「使いたかったもの」と
「持っていたかったもの」を、
混同していたのだと思う。
ミニマリストになって、
モノを減らしていく中で、その違いを少しずつ考えるようになった。
そして気づいた。
モノを減らすというのは、単純に数を減らすことではない。
自分が何のために、
それを欲しがっているのかを見直すことなのかもしれない。
Leicaが欲しかった
僕は趣味で写真を撮る。
だから、カメラは必要な道具だと思っていた。
実際、Leicaも何台か使ってきた。
欲しかった。
持っているだけで嬉しかった。
写真を撮るために買った。
もちろん、それも嘘ではない。
でも、今振り返ると、写真が撮りたかっただけではなかった。
Leicaを持っている自分が、少し格好よく見える気がしていたんだ。
今思えば恥ずかしい限り。
「Leicaを使っている人」に見られたかったのだと思う。
見栄で買ったものは、道具にならない。
そのことに気づくまで、少し時間がかかった。
誰にも見せるわけじゃないのに
これは当時、自分では気づいていなかった。
むしろ、
「ちゃんとしたカメラを知っている」
「良い道具を選んでいる」
そんなふうに思っていた。
誰かに見せるわけでもない。
写真を撮るためだけなら、もっと軽くて、もっと扱いやすいカメラはいくらでもあった。
それでも、そのロゴを見ると少し嬉しかった。
実際に使ってみると、
写真を撮ることよりも、カメラそのものに意識が向いている瞬間があった。
仲間とも、写真の話より、カメラ、いやLeicaの話ばかりをするようになっていた。
どのレンズを使うか。
どのカメラを持っていくか。
どう見られるか。
気づけば、写真を撮るための道具だったはずなのに、道具を持っていること自体が目的になっていた。
そして、撮るのが楽しくなくなってしまった。
見栄は、モノを手放せなくする
見栄というと、少し嫌な言葉に聞こえる。
だから、「見栄なんて張らなければいい」という話にしたくなる。
でも、僕はそれだけではないと思っている。
人からよく見られたい。
良いものを持っていると思われたい。
自分はちゃんとしていると思いたい。
そういう気持ちは、誰にでもあると思う。
僕だってある。
問題なのは、その気持ちをモノで満たそうとしすぎることだと思う。
モノは分かりやすい。
高価な時計を持てば、それだけで「良いものを知っている人」に見える。
高価なカメラを持てば、「写真をやっている人」に見える。
服も家具も同じだ。
自分で何かを積み重ねなくても、モノが代わりに語ってくれる。
だから楽なのだと思う。
でも、その楽さには少し怖いところがある。
一度、高価なものを買う。
すると、それに見合う自分でいようとしてしまう。
せっかく買ったのだから使わなければ。
高いものを持っているのだから、それに見合う知識が必要だ。
周りからどう見えるかも気になる。
そうやって、モノに自分を合わせるようになる。
本来なら、道具は自分のためにあるはずなのに。
いつの間にか、
「これを持っている自分」から降りられなくなる。
何度も箱を開けて、またしまった
Leicaを手放すと決めたときも、すぐには売れなかった。
高かったから、というのもある。
でも、それ以上に、
「せっかく買ったのに」という気持ちがあった。
何度も箱を開けて、眺めて、またしまった。
写真を撮っていないのに、手放すことだけには抵抗がある。
そこでようやく気づいた。
僕が惜しんでいたのは、カメラそのものではなかった。
そのカメラを持っている自分を、手放すのが惜しかったのだ。
「持っている自分」と「使っている自分」は、同じではなかった。
僕はずっと、その二つを混同していた。
残したのはフィルムカメラだった
最終的に僕が残したのは、1979年製のLeica M4-2だった。
当然、最新機種ではない。
もちろん、デジタルではない。
便利な機能がないどころか、ほぼ、シャッターと絞りとピントリングだけ。
でも、これは今でも持ち出したくなる。
理由は簡単だ。
写真を撮りたいと思わせてくれるから。
カメラとしての性能を考えれば、もっと便利なものはいくらでもある。
でも、僕にとって大事なのは、スペックではなかった。
それを持って外に出たいと思うか。
シャッターを切りたいと思うか。
撮った写真を残したいと思うか。
そこだった。
だから残った。
撮らないカメラを何台持っていても、写真は増えない。
だったら、一台でいいから、本当に自分の愛機と呼べるものを持つ。
それが一番良かった。
高いものが悪いわけではない
もちろん、高価なものを買うことが悪いわけではない。
むしろ、長く使えるものなら、安いものを何度も買い替えるより合理的な場合もある。
僕自身、長く使っている服や家具、道具はいくつもある。
大事なのは、価格ではない。
そのモノが、自分の生活の中でちゃんと役割を持っているか。
そこだと思う。
高いから良い。
安いから悪い。
そういう話ではない。
1万円の道具を毎日使う人もいれば、10万円の道具をほとんど使わない人もいる。
僕は、後者の方がもったいないと思うようになった。
「欲しい」と「必要」は、少し違う
ミニマリストになってから、買い物の仕方も変わった。
以前は、「欲しい」と思ったら、その理由を探していた。
例えば、これは長く使える。
あるいは、これは資産になる。
何より、これは良いものだから。
そして、これは自分らしいから。
そうやって、欲しい気持ちを正当化していた。
でも、今は少し時間を置くようになった。
そして、
「これを買ったあと、実際に何をするんだろう?」と考える。
使う場面が具体的に浮かぶなら、買う。
持っている自分の姿ばかり浮かぶなら、少し待つ。
それだけでも、買い物はかなり変わった。
ミニマリズムは、モノを減らすことだけじゃない
ミニマリストになってから、ずっとモノを減らしてきた。
でも、最近は少し違うことを考えている。
本当に減らしたいのは、モノの数ではないのかもしれない。
「これを持っていなければ」
「これくらい良いものを持っておかないと」
「人からどう見えるか」
そういう、モノの周りにくっついている余計な判断。
そちらの方が、僕にとってはノイズだった。
だから、必要なものは残す。
好きなものも残す。
毎日使うものには、ちゃんとお金をかける。
でも、「持っている自分」を成立させるためだけのものは、少しずつ手放していく。
それを持っている自分が好きか、使っている自分が好きか
いま、何か欲しいものがある。
そんなときは、少しだけ考える。
誰にも見せなくても欲しいか。
そしてもう一つ。
それを持っている自分が好きなのか。 それを使っている自分が好きなのか。
僕は最近、その違いを見るようになった。
モノを減らすことより、選ぶときの基準を減らさないこと。
その方が、僕にとっては大事なのかもしれない。






