4年ほど続けたホテル生活を終えて、今年からまた東京で家を借りた。
都内の8畳ワンルーム。
テレビもない。
置き時計もない。
電子レンジもない。
そして──冷蔵庫もない。
「それ、不便じゃない?」
誰に話しても、まず返ってくるのはこの言葉だ。
でも、僕自身は一度も“不便だ”と思ったことがない。
むしろ、冷蔵庫のない暮らしは、僕の時間と感性を整えてくれる「大事なリズム」になった。
ここでは、そのリアルな生活スタイルと、そこから得た気づきをまとめておきたい。
1|冷蔵庫がなくても、ふつうに暮らせる理由
冷蔵庫なしの暮らしを成立させているのは
「生活のテンポを小さく整える」こと。
たとえば──
・ご飯は炊飯器で2合炊く
2合を炊いて、基本は2日で食べ切る。
今の季節なら、常温でも痛む心配はない。
ただし、夏場はさすがに工夫が必要だ。
なので、炊飯器で蕎麦をゆでたり、焼きそばを作ったりしていた。
(このあたりの“炊飯器レシピ”は、また別の記事で書こうと思う)
・味噌汁はインスタント
・納豆と缶詰(サバ・マグロ)は常備
保存が利くものを優先すると、冷蔵庫がなくても献立が成立する。
・卵は「10個パック」ではなく「6個入り」だけ買う
理由はシンプルで、短い期間で食べ切れるから。
冷蔵庫がないと困るのではなく、買い方そのものが“丁寧”になる。
・足りない時だけコンビニで一品足す
お気に入りは、セブンの「サバと大根おろしのポン酢あえ」。
こうした“プラス一品”があるだけで、食卓は十分に満たされる。
・ビールも「飲む時だけ買う」
まとめ買いをやめたら、飲酒量が自然と減った。
特に、平日のなんとなくビールを手放せたのは大きい。
(この話も、別の記事で掘り下げたい)
こうして見てみると、実は冷蔵庫がなくても困らない。
“保存する前提”を手放しただけで、案外ふつうに暮らせてしまう。
2|便利はいつの間にか「時間泥棒」になっていた
冷蔵庫を手放して気づいたのは、便利な家電が“時間の節約”ではなく、“惰性の温床”になっていたということだ。
冷蔵庫があると──
- とりあえず買い溜めする
- なんとなく保存しておく
- 忘れた頃に賞味期限が切れている
- 捨てるときに、ちょっとだけ自己嫌悪になる
このサイクルが、じわじわと心と時間を削っていく。
冷蔵庫をなくすと、流れが変わる。
- 「今日食べるものだけ買う」
- 「食材を使い切る」
- 「料理が、小さな儀式になる」
便利をひとつ減らしただけで、僕の時間は“雑さ”から“丁寧さ”に戻っていった。
3|保存しない暮らしは、「心の重荷」を減らす
冷蔵庫の中には、食材だけでなく
“過去の自分”が積み上がっていく。
- いつか使うかも
- 捨てるのがもったいない
- 忘れていたけど、もう傷んでいる
保存できる環境は、先延ばしと罪悪感を増やす装置にもなりうる。
冷蔵庫をなくすと、目の前にあるものが
「今日の自分が選んだもの」だけになる。
未来に逃げず、“いま”を選ぶ。
その感覚が、想像以上に心を軽くしてくれた。
4|少しの“不便”が、季節と感性を取り戻してくれる
実は、冷蔵庫のない生活では、自然と身体の声が聞こえるようになるのだ。
夏はひややっこや冷たい蕎麦が恋しくなり、冬は温かい汁物がしみる。
昔の人たちがそうして生きていたように、
僕らの身体も、本来は季節に寄り添っている。
便利家電に囲まれた生活では忘れがちなそのリズムを、
冷蔵庫を手放したことで、少しずつ取り戻している気がする。
ミニマリズムとは、モノを減らすことではなく、
感性を取り戻す生き方なのだ。
とまで言うと、ちょっと言い過ぎだろうか…
5|冷蔵庫をやめて得た「3つの自由」
冷蔵庫を手放してみて、具体的にどんな“自由”が生まれたのか。
① スペースの自由
冷蔵庫がないだけで、キッチンに呼吸が生まれる。
物理的な余白は、思考の余白にも直結する。
② 時間の自由
まとめ買い・整理・掃除がほぼゼロになる。
「食材管理」に使っていたエネルギーを、
別のことに回せるようになった。
③ 意識の自由
「切らしたら困るから、買っておかなきゃ」が消える。
必要な時に、必要な分だけ買えばいい。
この当たり前のシンプルさが、
実は驚くほど大きな安心感をくれる。
不便を恐れなければ、生活はもっと豊かになる
冷蔵庫を手放すことは、我慢ではなく、“余白を増やす選択”だった。
- 不便を少しだけ受け入れる
- 便利を少しだけ手放す
このわずかな調整が、心の静けさと感性を思い出させてくれる。
冷蔵庫がなくても、ちゃんと暮らせる。
むしろ、持たないほうが“生きること”に近づく。
そんな実感を、8畳のワンルームで噛みしめている。
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