LEICAに恋して

Leicaに恋して。〜表現と技術の狭間で〜

なぜ、写真を撮るのか?

プロカメラマンでもなく、またそうしたものを目指していないにも関わらず、どうしてそんなに写真を撮るの?という問いに対して、ボクはいまだに明確な回答を持ち得ていない。
Leicaというカメラが好きで、ハマり、初めはただ、自分の頭や心の中にある、言葉では表現しきれない「何か」を表現したいという気持ちだけで写真を撮り始めた。

言語化するとそんな感じだけど、簡単に言うなら、それは「ただただ、楽しかった」からだった。

当時は、技術のことなど全く気にしていなかった。絞りとシャッタースピードの関係も、ISOをあげすぎるとデータにノイズが乗ることも、果てはそのノイズすら表現手段になりうることすら知らなかった。

Q2に固定された、28mmという画角の中で、好き勝手トリミングをして楽しんでいた。
ある意味で、PCのモニターに映し出された映像は、ボクの手のひらの中にあった無限の宇宙だったのだ。

額装|鴨そばの中の銀河(2022)

写真という文法

だが、時が流れ、いつしか技術を学び、知識が増えていくに連れ、徐々に自分らしい表現が迷子になっていった。技術を磨くことで、もしかしたら美しい写真、一般的に言うキレイな写真が撮れるようになっていったのかも知れない。でも、同時に自分の表現に対して疑問を感じるようになってしまった。なぜか、とても大切な何かを少しずつすり減らしている気がしてきた。

確かに、カメラの設定や撮影技術は素晴らしい写真を撮るために不可欠なものだと思う。それは悪いことではない。むしろ、本来なら技術の向上は歓迎すべきことだ。

一方で、カメラの技術を学ぶことは、実は自分の表現を縛ることになるのかもしれないと思い出したのもこの頃だった。無思考のままに技術にすべてを委ねると、写真は撮れるかわりに、自分が表現したいものが失われてしまうという矛盾。

確かに、光の当たり方や構図のルール、色の配色など、様々な要素を学ぶことで、自分の表現を深めることはできる。

あるいは、写真を撮る前に絞りやシャッタースピードを計算し、ライティングを調整することで、技術的に完璧な写真を撮ることはできるだろう。

一方で、それによって表現に自由がなくなり、思い切ったアングルや構図、感性的な表現をすることが難しくなっているような気がしてきた。こう撮れば、こういう絵があがってくる。カメラを構える前からそう考えるようになった。想像通りの絵が出てきたら、満足するし、安心する。でも、偶発的にでもこれまでに見たことがない絵が出てきた時のような衝撃は得られないし、それだけにこだわりすぎると、自分自身が持っている独自の感性や視点を失ってしまう危険性もあるということだ。

何より、あの頃何も知らず夢中で撮ったような写真は、もう二度と撮れない。技術や知識は大切だけれど、それに捕らわれすぎると、それはまるで、ある種の「縛り」のように感じられることがあるのはそのためだろう。

技術や知識が増えることで、より正確に自分が描きたいものを表現できるようになったかもしれない。しかし、同時にその表現に対しての意識や視点も変わってしまったのだ。

カメラマンを目指しているわけではないボクにとって、技術が表現の縛りになることは一番に避けなくてはならない禁忌だった。

技術という礎

一方で、実際に自分の写真上手くないと、何を表現しても伝わらなかったり、そもそも下手なことの言い訳になってしまうこともある。だから、技術的な面での向上をいっさいしなくて良いとも思わない。

技術を習得することは大切だけど、それにとらわれず、自分なりの表現を大切にすることが、より深い表現につながるし、自分自身の表現に更に深みを与えることができると思う。そうすることで、表現したいものをより明確に伝えることができるし、伝わり方もより深くなるのだ。

写真と表現の境界線を見つめながら、自分の中にあるクリエイティブな衝動を形にしていくことは、まるで未知なる世界を探検するような感覚に似ている。今しかないその一瞬の世界との出会いが、自分の表現を引き出すカギとなることもある。

ボクにとっては偶発的、無作為的なフレーミングが自分自身の表現を引き出す鍵であることも多く、人物や風景、芸術作品など、どのような対象にも独自の感性を通じて、自分なりの視点で切り取ることが大切だと考えている。

だからこそ、写真という表現媒体は、まだまだ未知の可能性を秘めているし、魅力的なのだ。

写真という表現媒体が持つ無限の可能性を目の当たりにしながら、自らのクリエイティブな衝動をどこまでカタチにできるのか、それがこれからの課題だと思ってる。

次の一年へ

同じ瞬間を二度と撮ることはできないが、過去の写真を振り返り、どのように表現してきたかを確かめることができるのは写真の醍醐味のひとつだ。

最近は、YouTubeの企画で自分の一年前に撮った写真のレビューなんかもやっている。過去の写真から、自分自身の表現の変化を感じることができるからだ。

当時、何も考えずに撮ってた、荒々しくて無作為な写真。でも、そこには何かしら「表現したい」という意思や意欲を感じる。

そんな当時の写真を振り返ることで、自分自身の表現について深く考えることができる。そして、今後も表現を追求しながら、自分自身の写真表現を楽しみたいと考えている。

つい先日、一年間もの間、眠らせたままだった写真アカウントの運用を再開させた。

https://www.instagram.com/photo_and_ryu/

長い間静寂を保っていたアカウントから、再び自分の表現の可能性が広がっていくことを感じると同時に、わずかな不安と緊張にも襲われた。

まだまだ自分自身の表現に自信があるわけではないし、これからゆっくり手探りでアップデートしていこうと思っている。

今後も自分自身の表現を追求しながら、更新し続けることで、自らを見つめ直し、より深い表現に到達したいのだ。

最後に

ボクがカメラを始めたのはコロナ禍まっただなかの2021年。当時、先行きの見えない社会の中で、カメラを手にすることで、未来や明日への希望を感じた。

ボクたちは、写真を通じて新たな世界を見つけ、表現することができる。

フレームを覗くことで、内にあるクリエイティブな衝動を呼び起こし、自分自身を見つめ直す機会となる。

あの閉塞した時代の中で、ボクはカメラという媒体を使って表現の可能性を広げることで、未知なる世界への探求心を刺激し、新たな明日への希望を抱けるようになったのだ。

だからこそ、これからもボクは写真を通じて、未知なる可能性を探求し、より深い表現を目指していきたい。

そんな風に考えている。

日常用Instagram

https://www.instagram.com/io_andy/

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ABOUT ME
Andy
we.編集長/Design Offiice io COO./Creative Director|東京⇆京都の2拠点生活。| 企業の経営課題を解決するデザイン・コンサルやクリエイティブ・ディレクションやってます。|ミニマル思考と独特の着眼点で「?」を「!」にする発想・提案が得意。|日本のビジネスにクリエイティブの革命を起こしたい。