40代、人といると疲れるのは性格じゃない|一人暮らしの理由

誰かと一緒にいる時間より、
一人でいる時間の方がずっと休まる。
こんな感覚を覚えたことはないだろうか。
実は、僕はずっと、そう感じてきた。
40代になった今、あらためて言葉にしてみようと思う。
「一人暮らしが快適だ」という話じゃない。
「人と暮らすと、なぜか疲れる」という感覚の、その正体についてだ。
違和感の始まり
幼い頃は、それが「自分の性質」だとは思っていなかった。
でも、どうやら僕は、人と暮らすのがあまり得意ではないらしい。
高校卒業までを親元で過ごし、大学進学を機に上京した。
はじめての一人暮らし。
未経験のドキドキよりも、
「自分だけの空間がある」という事実のほうが、はるかに嬉しかった。
四畳半の、息も詰まりそうな小さな部屋だった。
ベッドに寝転べば、頭の上には冷蔵庫。
テレビのスイッチは、足の指で消せる距離。
狭い部屋に、「当然です」という顔で鎮座する家電たちに、なぜか少しだけ違和感を覚えていた。
けれど、その違和感に名前をつけるほどの言葉は、まだ持っていなかった。
ミニマリストになるのは、もう少し先の話だ。
中学・高校時代を振り返ると、僕はどこか、ずっと居心地の悪さを抱えていた。
とはいえ、友達がいなかったわけじゃない。
いじめられていたわけでもない。
どちらかと言えば、クラスでは目立つほうだったと思う。
今でいうところの陽キャの輪にも顔を出すし、陰キャのグループとも普通に話す。
でも、どこにも属していなかった。
「親友」と呼べる存在がいた記憶もない。
教室という決められた空間。
そこに「いなければならない」こと自体が、苦手だったんだと思う。
だから、大学に入って、はじめて息ができた気がした。
何より、自分の時間を、自分の裁量で使える。
それだけで、世界はずいぶん静かになった。
一人暮らしのメリット
一人暮らしのメリットは、自由な時間割にあるとよく言われる。
でも僕にとって本当に大きかったのは、「誰にも合わせなくていい」という、もっと根っこの部分だった。
結婚をして、また似たような息苦しさを感じるようになった。
当時は、何が苦しいのか、うまく言語化できていなかった。
ただ、毎日、少しずつ気持ちがすり減っていく。
理由のわからない息苦しさを、ただ呪っていた。
なぜ、こんなにも人と一緒にいると疲れるのか。
正直なところ、今もはっきりした答えは出ていない。
ただ、ある傾向には気づいている。
東京。
仕事。
人間関係。
これらが重なると、顕著になる。
人が嫌いなわけじゃない。
それに、仕事で日本中を飛び回るのは好きだ。
そこに「いなくていい」という状態が、心地いい。
逆に、出社が義務付けられ、決まった時間にタイムカードを押し、同じ場所に、同じ人たちと居続ける生活は、どうにも息苦しかった。
SNSがなかった時代は、それでちょうどよかった。
今は、繋がりすぎる。
例えば、誰かの考え。
あるいは、誰かの感情。
そして、誰かの正義。
それらが、絶えず流れ込んでくる。
そして、最近になって、ようやく気づいた。
コミュニケーションそのものが、ノイズになることがある、と。
だからといって、人を避けたいわけじゃない。
孤独になりたいわけでもない。
ただ、自分の輪郭を保つには、ある程度の距離が必要だった。
その事実に、ようやく気づいただけだ。
「人と暮らせない自分」は、欠陥なのか。ずっと、そう思ってきた。
でも今は、少しだけ違う考え方もできる。
最後に
もしかしたら、否定すべきなのは自分ではなく、「常に人と一緒にいるのが正しい」という前提のほうなのかもしれない。
違和感は、間違いじゃない。
それは、自分の呼吸を守るためのサインだ。
家具を減らす。
服を減らす。
モノを減らす。
ミニマリズムというと、そういう「モノ」の話だと思われがちだ。
でも、たぶんそれだけじゃない。
自分に必要な距離を知ることも、
暮らしを最適化することの一つだった。
そして、人との距離まで、自分に合うように設計する。
そう考えると、僕にとっての「暮らしを整える」という言葉が、少しだけ違って見えてきた。
この文章は、人を遠ざけるための話ではない。
むしろ、自分に合わない距離感を、無理に正解だと思い込まないための記録だ。
そのうち、「仕事」という名のノイズについて書こうと思う。
静かに、確実に、人の呼吸を浅くしていくものの話だ。
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